医師のキャリアをとりまく環境・未来
真野 俊樹
1987年名古屋大学医学部卒業。医師、医学博士、経済学博士、日本内科学会専門医、MBA。臨床医を経て、95年9月コーネル大学医学部研究員。外資系製薬企業、国内製薬企業のマネジメントに携わる。その後、昭和大学医学部(病院管理学担当)専任講師を経て、現在、多摩大学医療リスクマネジメントセンター教授。
医師と医療経済 第11回
プロフェッションになること
少し純粋な経済学とは離れますが、給与の高さともうひとつの要素はプロフェッショナルあるいはプロフェッショナリズムです。
一般的には、医師や企業の監査業務にあたる公認会計士、弁護士、不動産の鑑定にあたる不動産鑑定士といった国家資格を持っている人をプロフェッションと考えることが多いのです。建築士や看護師などの職業も含めることもあります。組織論的に言えば、会社などの組織から距離を置くことができ、時には会社や組織に対して中立的な意見をいえる人と言ってもいいでしょう。
厳密な定義の立場をとりますと、プロフェッションとは、知識や技術によってサービスを提供する職業であるとされますが、専門的な仕事がすべてプロフェッションに区分けされることにはなりません。単一の技能に習熟したスペシャリストと混乱して使われることもあるようですが、本来は区別されるべきです。スペシャリストは本来ゼネラリストと対比して用いられるべき概念であり、かぎられた専門の仕事を続けている人を指します。したがって、特定の職場を離れたところで通用するような知識や技術をもっていることを必ずしも意味しません。
医師や弁護士は、勤務する病院や法律事務所を辞めて、他に転じることができます。自営が可能である職業です。それには遠く及ばないとしても、専門的な仕事に関わるプロフェッションはさまざまにみられます。
われわれは、組織人にならなくても済ませられるのです。逆に、組織で働くプロフェッション、組織から一定の距離をおきながら働こうとする人にとって、組織内の民主主義が実践されているだけでは十分でなく、一種の自由が制度的に保障されていることが欠かせないことになります。
職業社会学の研究者の多くがプロフェッションについて共通して指摘するのは、以下のような特徴です。つまり、高度の知識や技術に支えられていて、いわゆる素人が簡単にマネできない専門性を持っていること。それに加えて、誰にも命令されず、自分の判断で行動できる自律性をもっていることです。この二つの要件が備わっている職業をプロフェッションといいます。典型的な職業として医師や弁護士などがありますが、それ以外にもさまざまのプロフェッションが組織のなかで働いているのです。最近では、ITを中心に高度の技術や知識を習得して成り立つ職業に従事する人が増えました。これもプロフェッションといえるでしょう。
京都大学の田尾は、疑似プロフェッショナルズといった概念も提唱します。
外の世界が、組織に対して圧力を強めるほど、それに対抗できる専門性が必要になるのも当然というべきで、その接点には、指示待ち人間ではなく、自ら考える能力をもった人を必要とすることになるからです。行動のスタンスを、いま所属している組織ではなく、他の組織に求める人もいます。この場合、判断や行動の基準が組織の内にはなく外にあることになります。
彼らは正確には疑似プロフェッショナルズというべきでしょう。ただし、もっとも厳密な意味において、会社に勤務していては、スペシャリストとかエキスパートのような言葉はあっても、プロフェッショナルとはいわないと言う見方もあります。 なお、田尾によれば、大学の研究者を対象に行った研究では、組織にも強くロイヤルティを示し、プロフェッションとしての自信も自負も強い、すなわち混合タイプの教授たちのアカデミックな業績は必ずしもよくなかったという報告があります。混合タイプになることは、組織への順応であり、中途半端な妥協にもなります。そのために、組織との葛藤は減ることになっても、同時に、仕事そのものに向けられた意欲や倫理に緊張を欠くことにもなるのです。その結果、専門家、つまり、職業人としての動機づけに欠けるところがでてきそうであると考えられます。
プロフェッショナリズムとは
ただし、プロフェッションになるということは大変なことです。そこには、組織が介在せずに責任が生じるからです。弁護士しかり医師しかりでしょう。
どういうことでしょうか。プロフェッションは組織に対しては依存していないのです。
自由は責任も伴う、極論すれば自由が無いほうが選択させられたり、責任も無いので楽なのです。今の社会は選択の自由を目指すので、責任やややこしさも増加しています。
正義論で有名なロールズの弟子であるスキャンロンは次のように考えます(T.M. Scanlon‘The Significance of Choice in Darwall.S.ed. ”Equal Freedom”1995 Univ. of Michigan Press.)。「自由」にとって、誰からも強制されない選択の可能性は決定的に重要なのですが、その重要性は、ただそのことによって個人の主観が保持されるからでもなく、また自発的意志が確保されるから、というだけでもないといいます。スキャンロンによれば、選択するという行動自体に価値がある。なぜなら、われわれは、その選択という行為そのものに自己の感情や存在の証を投影したり、またそこにある種の象徴的意味を与えたりするからである。この場合、個人の選択行為は、常に社会的で社交的な意味空間において意義づけられ、また検証されている。だからこそ、選択の結果に対して個人の「責任」が発生するのだ、と言うのです。こういった要素がプロフェッションには強いと言えます。

