医師のキャリアをとりまく環境・未来
真野 俊樹
1987年名古屋大学医学部卒業。医師、医学博士、経済学博士、日本内科学会専門医、MBA。臨床医を経て、95年9月コーネル大学医学部研究員。外資系製薬企業、国内製薬企業のマネジメントに携わる。その後、昭和大学医学部(病院管理学担当)専任講師を経て、現在、多摩大学医療リスクマネジメントセンター教授。
医師と医療経済 第22回 (価格の難しさ(1))
給与再考
以前にこの連載の中でも給与の議論をしました。給与とは、経済学的な見方をすれば、その人の提供する労働力の価値に対する対価です。
しかしながら、この価格(給与)は、完全競争、労働力の流動化を前提とする主流派経済学のようにはいかないのです。たとえば、もしこの前提が正しいとすれば、医師はすべてもっと高収入の職業に付くかもしれません。医師の場合には特殊な職業なので職業を変えるのが難しい、経済学的にはスイッチングコストが高いのだと主張する人もみえるかもしれないので、たとえば電機メーカーと金融業では明らかな給与格差があるのにそこで職業選択が起きない点を考えてみましょう。
行動経済学では、現在の状態に対するこだわり、すなわち「現状維持のバイアス」を主張します。スイッチングコストの裏返しといってもいいのですが、心理的な要素を重んじる行動経済学では、こだわり、といった要素を重視します。簡単に言えば、同じくらいの価値だと感じればあえて転職しないわけですが、現在の状況の価値を高く感じてしまうあるいは感じるようにして、転職に対して考えないようにするというわけです。
しかしながら、この考え方だけで高い給与に向けて転職をしないというのも少し乱暴な意見でしょう。実際には、今やっている仕事への意味(価値と言い換えてもいいでしょう)を感じているし、それがやりたい仕事であるから転職しない、という部分が大きいのではないでしょうか。
価格での評価
一方では、資本主義がここまで進んでくると、価格でモノやサービスの評価をする、という方法も有力になってきます。すなわち、高ければいいもの、高収入であればいい人という価値観です。確かに、価格の形成が正しく行われていれば、すなわちそのひとの価値に見合った価格付けになっていれば、これは正しいでしょう。
しかしながら、価格というのはそんなに正しいものでしょうか。
1部のものではある程度判断できるかもしれません。
シグナリング理論
価格の話と少しはなれますが、人は相手のあるいは対象物やサービスの価値がわからないときにどうやって評価するのでしょうか。その方法のひとつが価格ですが、ここでは、ノーベル賞受賞者のスペンスが述べたシグナリング理論を紹介しましょう。
これは、企業等への就職の時のシグナルとして学歴を利用するというものです。要するに学歴が高ければ(入試が難しいという前提つきですが)地頭(ジトウではありません、ジアタマです)が良く、確率的に優秀な人が多い、したがって、学歴がある人を採用するのである、という話です。
私のような教授職からみれば、これは考えてみると失礼な話です。大学入学以後の努力をまったく無視しているからです。特に医学部のような難しい国家試験を受けるためにハードな勉強をした人間と、そうでない人間を大学入学時の偏差値で同じに評価するというわけですから。
これは、企業担当者の側のリスクヘッジの意味、すなわち、たとえば自分が採用した人がトラブルを起こしたとしても、「東大だったのに残念です」といえば、責任が逃れやすいということもあるでしょう。
これは情報の非対称性があるために、企業担当者が採用のときにその本人の情報をつかみきれないために起きることです。
医師やMBAというシグナル
医師が企業(たとえば製薬企業)に転職するときにも実は、このシグナルは大きいのです。一言で言えば、企業の担当者は医師というシグナルでものを見ます。特殊な資格である医師というシグナルはとても大きなものです。したがって、その医師が実はマネジメントにすばらしい才能を持っていたとしても、それは評価されません、というか評価できないのです。
これは、実は新卒と中途採用者に対する企業の考え方の違いでもあります。新卒に対しては地頭を重視した企業ですが、中途採用者に対してはガラッと考え方を変えます(これは日本の企業の話が中心です)。すなわち、即戦力を求めるのです。その意味で医師という高度な専門技能を持っているということは、企業の最も知りたい能力を示すシグナルでもあるのです。そこでは、いくら、その医師が「自分にはマネジメントの才能がある」と主張しても詮無いことになってしまいます。むしろ医師としてのそこそこの経験を問われます。
しかしながら、最近では医師というシグナルを敢えてはずす場合もあるようです。採用時に地頭を重視する会社に、コンサルティング会社のマッキンゼーがあります。ここでは最近高学歴の医師を多く採用しているようです。このようなケースでは、逆に医師として何を知っているか、どんな経験をしたかではなく、医師になっているという地頭を重視するという考え方になります。これは、「医師としてはけしからん」、と思う方も多いとおもいますが、又面白い考え方ではあります。なぜなら先ほど述べたように、医学部では医師国家試験という高いハードルを越えているわけですから、その人物は学歴プラス忍耐力といいますか思考力も持っている、ということがシグナルとしてわかるからです。
同じように、MBA(経営学修士)というシグナルもあるでしょう。
ただ、残念ながらこれは医師や弁護士や会計士といった日本でステイタスになっている専門資格に比べるとシグナルとしては弱いようです。
これは、企業側の姿勢が原因で、MBAを取得していても即高給で迎えるという体制を日本の企業がとっていないからです。もちろん、これをもってMBA教育を否定するものではありません。この過程の中で得られる技術や人脈は又得がたいものであるからです。
次回に価格の話に戻りましょう。

